ゲーマーの先鋭化の話&わたしが目指すゲーマー

実はゲーム小話の初めての記事はこれです。歯に衣なんてぶん投げました。完ッッッッッッッッ全に自己責任でお読みください。
この記事はこのサイトの他ページのほわほわ空間とは異次元にあります。本当に好き勝手言っているので異論や意義が浮かんだらそっ閉じしてください。

なぜこのページだけここまで隠すのか。
それはこのページは他のページと切り離し、「Magia Laboratory」とは別のサイトの戯言だと自分の中で納得させたかったからです。
あくまでここは「サイトとは無関係のふらもんの手記」です。お願いしやんす。

このページはまじで書きなぐりです。心に余裕があるときに、気をつけてお読みください。
何なら名指しでこそありませんが偏見や中傷を批判する表現があります。色々とお詫び申し上げます。
気分を害しても責任持てません。お気をつけて。


わたしはこんなサイトを出していることから分かる通りストラテジーゲーム好きですが、もとはJRPG……コマンドベースクラシックRPG畑のライトゲーマーでした。
というより「戦闘が楽しいRPG」を探していたらルーツを遡ってSLGに行き着いた感じです。

なのでSLGといっても大局戦略ゲームは(少なくともこの記事を書いている段階では)実はほぼ経験がなく、「ファイアーエムブレム」「ネクタリス」「ラングリッサー」「Into the Breach」「ピクミン」など、あくまでボードウォーゲームから派生した一戦一戦別々に行うキャンペーン式のゲームしか今のところ経験がなかったりします。

また、わたしはSLGというニッチジャンル好き、かつ考察掘り下げ大好きの根っからマニア気質ですが本質は「ゲームであることが好き」です。
ゲーム制作者や他のプレイヤーとの知恵比べ、あるいは自分との競争をするゲームだってあるでしょう。原理主義者からは批判されがちなソーシャル性……言い換えれば「物語の共有」を含め、コンピュータアナログ問わず仮想体験を通して人が繋がれる限りわたしはゲーム好きであり続けたいと思います。

その一方で、ゲームは芸術媒体であるとも思っています。ゲームの作り手もまた(今のところは)人であり、その人たちの思想や技術が出てくること。ゲームを通してそれらを知ることは芸術鑑賞にほかなりません。
現にわたしはゲームに触れたことが遠因で3D-CGが初心者なりにできるようになったので。物語の交流、それがゲームだとわたしは思います。

以上の遍歴をご覧のとおり、わたしがゲームにおいて最重要視するのは「ゲーム性」で、同着あるいは次いでいるのが「ストーリー」です。
あとはジャンルによって基準が変わってくるものの(SLGはユーザーインターフェースも大事、ACTは操作していて気持ちいいかも大事など)、まずゲーム性あってのゲームである、ということはゆるぎません。

さて、前置き兼クッション以上。本題に入りましょう。
そろそろこれ以後の話題に付き合ってられない人は長話に付き合えず帰ったか、あるいは分かった、この話はアレな話だ!はいやめやめ!とウルトラマンゾフィー状態となってそっ閉じしたと思います。

わたしはついこの間まで、いわゆる実況プレイが嫌いでした。倍速視聴のような「薄味で見た気になる作品への冒涜行為」だとずっと思っていたからです。でもよく考えたらこれ違うんですよね。
倍速視聴と違い、ウィンドウにレベルが出る→進行度が常に画面に出ている「ドラクエ1」を代表とするファミコン時代から……どんなに遅くとも「ポケットモンスター ルビー・サファイア」を始めとしたGBA・PS2時代から、「みんなで寄り集まってゲームする」前提の設計はされていました。
そもそも「ゲームセンターCX」をゲーム制作者が受け入れている時点で共存できてるんです。何ならわたしだって自作を実況プレイしてくれたら(その前に完成ですが)(ラスボスだけ配信とかしない限り)泣いて喜んで扇子持って踊ります。
名指しはしませんが、実況動画を先に見たらコンセプトが崩壊するゲームは(ADVでもない限り)その時点でそれが問題点であるとあくまでわたしは思います。

一方で、実況だけ見てプレイはしない、という人もいるとは思います……思いますが、結局ゲームを見るのとやるのでは違うことくらいライト層もわかっています。
例えばですが「やらなきゃ魅力がわからない」典型の任天堂作品は……ターンベースSLGという時点でニッチ狙いである「ファイアーエムブレム」を含め、十分にライト層にも届いています。

なんでこんな話をしたかと言うと、結局「高難易度のゲームほど実況で済ませられる可能性は必然的に高くなるしなんならひどいと初心者にそっぽを向かれて沈んでいく」という身も蓋もない事実です。
そういう意味で今はゲーム性を磨けば遊んでもらえて拡散もできるので(極例が「スイカゲーム」とかかな。ハマりますよね)、そういう意味では本当にいい時代です。
何が言いたいか。人を振り落とすゲーム性はプレイヤーにいい影響は与えることはないということです。そもそもストーリーが主役であるRPGなら言うに及ばず、競技性の高いゲームにしたって結局対戦人口がいなくなって悲しいことになります。他要素で挽回するゲームもありますが、やはりゲーム部分がある程度楽しくなければラノベやスポーツでいいわけです。

こういう話題においてよく出るのが「NewマリオWii」のお手本ブロックやSwitchオンラインの復刻ゲームの巻き戻し機能といった、いわゆる救済措置。
レベルデザインへの自信保証だとか倍速視聴同様の作品のコンテンツ化だとか毀誉褒貶激しい荒れるテーマですが、超個人的には「あって何が悪い」一択です。
前者は結局嫌なら使わなければいいだけであり、使わなければゲーム内外で何らかの形で勲章がもらえます。後者は「クリアしたことにする」ことやいわゆるチートではないため、むしろチャレンジの補助ですらあります(流石にローグライクにこれがあったらリセマラが可能になってしまってゲーム性が崩壊するので話は別ですが)。それでいいじゃないですか。

ここから先は本当に自戒なのですが、ゲームにおいて「ゲームはこうでなくてはならない」「ゲームクリエイターはこうでなければならない」という至上主義的思想を持ったファンが増えたジャンルはたいてい廃れます
何ならPS2・PS3あたりのゲームは業界全体がこれになりかけていて、SwitchでのV字回復がなければあのまま潰れていた世界線もあり得たと思います。
というのもわたしが見かけたNoteにこういう趣旨のものがあったからです(そのものの掲載はしません。Disりが主ではないので)。
本当に面白いものなら初心者でも遊べるから初心者向けなんて概念いらない

……ライトユーザー蔑視もいいかげんにしろ、ってなりました。
確かに救済措置や実況プレイで、純粋なゲーム性≒競技性が損なわれる部分もある、ということは否定できません。できませんが、それを言い出したらスポーツ観戦が趣味の人はスポーツファンを名乗るな、と同義です。
グチグチ言いながらやってくれる初心者がいるから中上級者は中上級者でいられます。ガチ勢はエンジョイ勢と、ガチ勢になりたかった屍の上に成り立っています。
というかファミコン・スーファミの大昔から受けたゲームはみんな(今からしたらも含めて)ヌルゲーですよね。格ゲーだって「ストリートファイターII」は差し合いのみなので今からしたらとてもシンプルで、現に「ストVI」はそれに回帰してるそうです(格ゲーなんもわからん。ごめん)

あとこれは持論なのですが、ゲーム性だけじゃなくて極端なストーリーやナラティブ至上主義というか、要するに雰囲気ゲー信仰も根は同じだと思います。ストーリーだけ良くてゲーム部分に魅力がないものも、結局実況で済まされてしまうのは同じだからです。
もう身も蓋もないことを言えば、ライトユーザーはヘビー層が思ってるほど軽薄ではないんですよ。なんならヘビー層より純粋なゲーム性への嗅覚が優れたライト層なんていくらでもいます。
たとえば「どうぶつの森」「牧場物語」「Minecraft」あたりのハウジングゲームって根本構造はオープンワールドゲームと構造がかなり似ています。ああいう層を沼に沈めて巻き返したのがここ10年くらいのゲーム産業だとすらいえます。

もう「新規は知識と歴で殴って追い返す」「これがわかっちゃう俺達は偉い」みたいな選民価値観、平成に置いてきてくれませんか
コンテンツは大前提として老若男女に開かれているべきですし、わたしの持論ですがゲームは教育コンテンツだと思っています。キャラになることがゲームの本質じゃないでしょうか。
確かに「コンテンツたるアイデンティティを失ってでもコンテンツを続けろ」とまでは言いませんが、結局アイデンティティを失ったコンテンツの未来は短いんですよ。流行りに便乗して持ち味を失ったコンテンツはたいてい廃れます。そしてそうなる理由は結局作品の魅力が欠けていることに他ならず、排外は回り回ってファンの首を絞めるんです。
思想を抱いたマニアの方しか向かず、新規の扱いなんて適当なんてことをやった結果、格闘ゲームは廃れ、逆をやると復活しました。これが全てです。
人気なら、続きさえすればなんだっていいのか、という反論もあるでしょう。でも先程の繰り返しになりますが、結局ファンダムは秘密基地じゃないんですよ。
作品として敬意を持てば「俺の嫌いな方向に向かって人気になるくらいなら終われ」なんて思想にはならないんです。

結局我々はオタクである以上に一人の社会生物です。なにかのジャンルのオタクであっても他界隈からすれば一般人。
オタクが迷惑行為に走ったとき、本当に迷惑がかかるのは所属界隈であり、なんなら界隈そのものを拒絶する人まで出るというのはいくらでも例があります。再三繰り返しますが、排外はファンも部外者も制作者も誰も得をしません。
推しや好きジャンルの顔に泥を塗らない。これを肝に銘じてオタ活したい。できていないときがあろうと、そうあろうとすることが大事だと信じています。

まとめ

さて……自己責任ページですが、ここまで偉そうなことを長々とすみませんでした。

以上の文章はすべて過去の自分の行いの謝罪、そして未来の自分への戒めも強く含みます。
というのも「ゲームはこうでなくてはならない」「ゲームクリエイターはこうでなければならない」という至上主義的思想という上に書かれたことは自分もやっちゃったからです。なんならわたしもかつて「RPGもゲームであり」的思想をぶちまけた老害です。
本当にジャンルに敬意を持つなら、推しが本当に推しなのなら、べき論的思想はやっちゃだめなんです。未来のファンを「ついてこれないやつなんていらない」なんて切り捨てたら、結局待っているのは老衰死です。

何も知らない人でも面白い、それがコンテンツ、エンタメのあるべき姿です。
ゲーム・百合オタクの端くれとして、ひいてはゲーム作家ごっこをする身として、迷ったら読み返すつもりでこの記事を書きました。

それでは皆様、重い記事を最後まで読んでくださりありがとうございました。
いいオタ活を!

参考

なぜSNSのオタク界隈は荒れるのか ~特撮界隈から見るSNS社会とオタク文化の闇~

ゆっくり実況を衰退させていたのは自分だった話

“オタク”はしぶとく生きている ~オタクに巣食う選民思想の正体~

ゲーム好きとeスポーツ好きが分断される日

Lies of Pはソウルライク界の達人王、になってくれ。

批評連載1:ゲーム文化の担い手はプレイヤーを越えている